今年の目標?『あそびの心』だと?なんだそれ。
あけましておめでとうございます(再)。前回の投稿では、今年の目標なるものを掲げさせてもらいました。目標設定はわりと得意なので、今年もノリでえいやと掲げました。そしておかげさまで数多くの方からのコメントもいただきました(※全くいただいていません)。さまざまな意見をふむふむと聞きながら(※聞いていません)、僕自身もう少し目標の中身について考える必要があるなと考えました。
あそびの心ってなんやねん。ふわっとしすぎじゃない?目標ってもっと具体的なものじゃないの?今年こそは、新しいスポーツに挑戦する、毎月5冊読書する、毎日1時間は勉強する。毎日30分は家族と会話する、お酒は缶ビール一本で我慢する、とか。一年の目標って具体的なものじゃないの?目標が抽象的だと、達成したかどうか評価できないじゃん。
おっしゃるとおり、そうですね。
なんとまあよくわからない目標を掲げたものだ。『あそびの心』なんぞ。年の瀬に一年を振り返った時、「今年はあそびの心を大事にできたかどうか」はどう判断するのだろう。至極、僕の主観で判断せざる。自分が、「ああ今年はあそびの心を大事にできたなあ」と思えば、目標は達成され、一方で「ああ今年はあそびの心を大事にできなかったなあ」と思えば、目標は達成されない。あくまでも、自分自身のはなし。このような目標を掲げても、その判断基準が僕にしかわからないのであれば、それ目標としての意味をなしているのか。これはつまり、どれほどあそびの心を大事にしたかどうかは、僕の”解釈次第”であり、たとえつまらない一年を過ごしたとしても、僕がそう思えば目標は達成されるのだ。
ふりかえってみると、僕はこれまで(ここ5,6年)一つとして、具体的な目標を立てたことがない(今年の目標に関して)。総じてなかなか抽象度の高い目標を掲げていた(気がする)。今まで目標の質に関して考えてこなかったので、それが具体的か抽象的かなんて意識したことはなかった。でもいま、ふりかえってみると、総じて抽象度が高い。そして、その目標を達成できたかどうかも、ふわっとしている。つまり、達成したのか達成していないのかわからないけど、とりあえず達成していることにしておこうというポジティブを発動していたと思う。
ここが問題である。目標が抽象的な場合、その目標が達成したかどうかを明確に評価することが困難となる。換言すると、どのような一年を送ったとしても、目標が抽象的であれば、目標を達成したと”解釈”することができる。たとえば、「今年一年、健康に過ごしたい」という目標を掲げた場合、これはもちろん多くの人が望むことであり、特に高齢の方は一日でも長く生きたいと思うのが本望だと思う。しかし、では一年経ってみて今年は健康に過ごせたかどうか判断するときに、それが自分自身が”健康に過ごせた”と思えばそれだけで足りてしまうのである。人によってどのような状態が”健康”であるかは異なる。もちろん共通している部分もある。しかし、その人にとって健康に過ごせたかどうかは、その人にしかわからないのである。では、どうすればよいのか。もっと具体的にすればわかりやすい。例えば、「健康のために週に一回必ずウォーキングする」目標とそのための手段がセットになっている。これはわかりやすい。「血圧をOO以下に抑えるために、毎日OOを摂取する」具体的な数値を出して、より明確になっている。このような目標であれば、達成したかどうかわかりやすいし、何より次につなげやすい。もしかりに達成できなかったとすれば、その経験を来年の目標に落とし込めばよい。
そう、そうなんです。僕の立てた目標には、なんの脈絡もなく、ただよくわからないゴールを設定しただけにすぎない。これをどうやって達成するのか、そこの部分がないと、目標の意味がなくなってしまう。というか、ただ意味もなく『あそびの心』を持っているだけで何もしなくとも目標が達成できてしまう状況は、避けたい。もうちょっと具体的にせい。
「『あそびの心』を大事にするためにお前は一体何をやるんだ?」
この問について考えなければなりません。ただもう一人の僕が出てきて、反論します。
「『あそびの心』を大事にするうえで、重要なことは、何にも縛られないということだ。つまり『あそびの心』を大事にするうえで、具体的な方策を提示することは、それは『あそびの心』の概念に反する。僕にとって、『あそびの心』とは、大勢が直進するなかで、立ち止まることであり、9番線と10番線のあいだにある”なにか”を探すことであり、近所の空き家の敷地にある枯れ井戸の中に閉じこもることである」。
もう一人の僕は続ける。
「僕はつねに『あそびの心』を大事にしていきたいし、そのためには、あえて抽象度の高いままにしておくことも必要なのである」。
なるほど。言わんとしていることはわかる。一方で、つねに『あそびの心』を大事にしているのだったら、わざわざ目標にしなくともべつにいいんじゃない。つまり、今年の目標は今年頑張ることであって、自分の人生に通底している概念を取り出しても、それはいつも大事にしてますから、で終わってしまいそうです。今年の目標として掲げるからには、それが”今年である必要”があります。来年でも、再来年でもなく、今年の目標であるからには、今年である理由が求められるます。その目標がべつに来年でもいいと考えているのだったら、それは今年の目標としてふさわしくありません。2023年の目標として掲げるからには、それが2023年の目標である必要性が求められるのです。2024年でも、2025年でも駄目なのです。おわかりでしょうか(これを読んでるあなたにも呼びかけています)。
つまるところ、僕には勇気がなかったのかもしれません。
目標を具体的にすればするほど、成功か失敗かどうかが明確に、客観的に判断できます。目標が達成できないとブルーな気持ちになる。そして、いったん目標を決めてしまうと、一年間それに縛られてしまうことになる。その一年間が目標を達成するための”作業”となってしまう可能性がある。僕はそんなことはごめんやで!!ただよくよく考えてみると、目標とはそういうものであって、律するものであり、縛るためのものである。進んで縛られに行っている以上、なにも反論はできない。やはり、目標は具体的なもののほうがいいかもしれない。それが達成できなくても、まあいいとして、とりあえずもう少し具体化してみよう。
考えました。ここ一年勉強しようと思っても途中で飽きてしまったり、挫折してしまったりしたものを目標に据えようと思います。
今年の目標は『HSK(中国語)2級合格!』
これまで中国語の勉強何度かトライしてみましたが、飽きてしまったり、挫折してしまったりしました。ただもう一度気合入れて勉強再開しようと思います(からげんき)。今年中にはHSK2級(※初級です)合格を目標に挑戦してみようと思います。新年始まって早々、今年の目標を訂正しようとおもいます。
『あそびの心を大事に、HSK2級合格を目指す』
なんとも腑に落ちない目標ですが、ご了承ください。そして今年の12月は悲しみに包まれているか、それとも笑顔に満ち溢れているか。乞うご期待!