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<前回の続きです>
―音楽を聴くこと、楽しむこと、とはって感じですね。
歴史っぽい話すると18世紀産業革命以降、産業主義主義的生産様式の拡大により、言葉も同じく産業主義的な転換があったらしい。所有することが私的なものになり、所有と各人の威信が結びつくようになった。自分の所有するものは、たいてい自分のために作られたものとみなすようになる。「私の教育」「私の移動」「私の娯楽」など。私たちはテレビや電話の使い方は知っているが、それらのしくみは私たちあまりわかっていない、説明書にしくみは書いていない、隠されているともいえる。それらを知りたい場合には誰かに教え込んでもらう必要がある。
人々は自分が教え込まれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど何も学ばない。人々は自分達たちには”教育”が必要なのだと感じるようになる。なにかものを学ぶということは、こうして商品となる。
p.135 コンヴィヴィアリティのための道具
そうやって「私は学びたい」という言い方は「私は教育を受けたい」と言い換えられる。また「私は歩きたい」という言い方は「私は輸送機関を必要とする」と言い換えられる。前者の動詞的技法では「私が行為主体」であるが、後者の名詞的技法は「私が消費するもの」というように言い換えられる。つまりそれは言葉の動詞から名詞への機能的転換である。私がやりたいことは、机上の名詞群(教育、移動、娯楽、健康、、、)から”選択”し、それを”消費”することによって、達成されると。
雑に言えば、わたしのやりたいことはユーキャン通信講座のどれかであり、それを選択し、消費することがわたしの”やりたいこと”であるイメージ。
―ほう。
つまり社会に生きることは自然のうちにものを”所有”する話になるし、”消費”する話になる。言語的にもうそうなっているからね。それに抗う人たちとして、詩人、詩吟や道化といったものが存在してきたと。隠喩などの表現技法を用いることによって産業主義化された言葉のスキマを紡いでいく。ミュージシャンもその中の一つであるし、ざっくり言えばアーティストすべての人たちもそうですよね。彼らによって私たちは想像力を得ることができるだろうし、喜びや笑いを体験することができる。
自立共生的<コンヴィヴィアル>という言葉を用いて、I・イリイチはこんなことを言っている。
人間の本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し、創造性を最大限発揮させていく社会、技術や制度に隷従するのではなく、人間にそれらを従わせる社会、それは決してユートピアではない。
コンヴィヴィアリティのための道具 裏表紙より
自立共生的<コンヴィヴィアル>社会を築くためにはどうすればいいのか。まずアーティストという存在がとても重要となるだろう。アーティストは私たちに自立共生<コンヴィヴィアリティ>のための道具をわたす。私たちはそれらの道具を用いて、考えること、何かを体験すること、想像すること、創造性というものを獲得していく。それによって私たち自身でも何かを創造、発信、紡いでいく。何かを創造することは一見難しそうだが、やってみればたいしたこともない。重要なのは創造したものの中身ではなく、そのプロセスにある。考え、悩み、そして創造する。そして創造後に見える景色は以前のものと異なっているだろう。社会というものの輪郭が前よりはっきりしてくる。そのころには私たち自身もアーティストとなっているだろうし、みんなで生きるってつまりそういうことだろうとおもう。
📚<コンヴィヴィアリティのための道具> イヴァン・イリイチ著
現代の産業主義的生産様式(商品(道具、サービス)をひたすら生み出すこと?)を徹底的にこき下ろす。近代以前、医療というものは地域の呪医や、薬草で行っていた。そして産業化が進み、医療は”サービス”となり、私たちは自分自身のことを自ら世話することは、ほとんど不可能になった。
よりよい教育、よりよい健康、よりよい輸送、よりよい娯楽、そしてよりよい栄養を欲する。なぜだろうか、というかその”よりよい”とは一体なんだ。よりよい教育とは、高学歴なことだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。低学歴だからといて、よりよい教育でないとは言えないし、そもそも”よりよい”とは主観のはなしであって、客観的に”よりよさ”は測れない。そう考えると”よりよい”というものは”えらぶ”ことではなくて、”つくる”ことなんだろう。
<追伸>
テレビで富士山のニュースやってました。噴火想定した走行実験。
300年休んでいるのは異常事態らしく、いつ噴火してもおかしくないって。東京都心でも火山灰が降る可能性が高く、10センチ程度積もる恐れがある。経済被害は最大2兆5000億円だって。火山灰って結構厄介そうだよね。本当に全インフラが止まりそうだよね。スマホとかも使えなくなりそうな気もしているんだけど、そうなったときに大事なのは隣人なのであって、とりあえず今から隣人に醤油を借りに行けるような仲にならないといけないのかなあと感じています。
(次回からは温暖化のことを少し話していこうかなと思っています。)