今日のおれはとくにいらいらしていた。こんな蒸し暑い日に。
『いいか、そんなことはどうでもいいんだ。』
『おれが聞きたいのは、お前の目玉焼きの好みではない。』
『お前が目玉焼きにソースをかけるか、しょうゆをかけるか、そんなことはどうでもいい。勝手にしろ。問題はだな。』
『お前がいつ、どうやって目玉焼きの作り方を知ったのか、ということだ。』
『いいか、もう一度言うからよく聞け。』
『たまごってのはな、きわめて尊い存在なんだ。』
『この世界では、たまごは王様なんだよ。』
『たまごはあらゆるものの生みの親なんだよ。』
『ほんとうにわかっているのか。』
『それほど尊いたまごさまを、お前はあろうことか、目玉焼きにして食した。』
『これはきわめて重大な犯罪だ。それはおまえもよく知っているだろう。』
『刑卵法には、「目玉焼き調理・飲食等罪」が規定されている。』
『条文によると、たまごを使用し、目玉焼きを調理し、又は飲食及び提供をした者は20年以上の卵焼き刑に処すると規定している。』
『たまごさまの尊厳を害したことに対する罪は大きい。』
『罪を償いなさい。悔い改めよ。』
―年齢に対するある種の「型」みたいなものは強固に存在していますよね。
そういえば、30歳になりました。29歳とどう違うか。全く変わりません。
20代から変わった点といえば、G7のニュースにおもしろみを感じているところかもしれません。20歳の頃なんかG7のことなんかまったく知らなかったですし。30代になることは、G7に興味を持つことなのかもしれません。そう考えると、30代ってわりと大人ですね。
でも、なぜ、年齢を気にしてしまうのでしょう。年齢なんてただの数字でしょう。
たしかにそのとおり。ただ、30歳からの1年1年がとても貴重な気もしています。20代と違い、アブラの乗り始めた30代は、どのような時間を過ごすかで、その後の人生の射程が決まっていきそうな気もしています。
つまりですね、なんか30代という響きに、そろそろどこかに落ち着かないといけないという強迫観念じみたものを含んでいそうな。これは俺の妄想かもしれない。
自分は基本的に「一貫性がないことに一貫性がある」という感じでやってきた人間なので、どこかに落ち着かないといけないのかとなると、あわあわします。冷や汗たらりです。
20代の頃は興味があることに適当に首を突っ込んでいましたし、それに関してなんのためらいもありませんでした。ただ、30代になっても、同じように興味があることに適当に首を突っ込み続けていいものなのだろうか。少しばかりのためらいが生まれてきつつあるのは確かです。
30代から40代にかけて、まじで何かに一貫したほうがいいのかもしれません。それは、簡単に、そうしないと、生きていけないんじゃね、という漠然とした不安のようなものです。
一方で、別にそんなこと心配したってしょうがないだろうという思いもあります。ただ、難しいのは、先のことを心配するのはしょうがないからといって、全く考えないというもの、なんだか違う気もしています。
先が見通せなくても、一応、見てみようとする若しくは、見通せるフリをする。
「不安という感情は、基本的に知識不足に起因する」みたいことを誰かが言ってた気がします。なるほど。
つい、生き急ぐ。急いでも、仕方がない。なにがそんなに生き急がせるのか。
つい先日、科目試験でした。今までオンライン試験だったので、初のリアル試験でした。憲法と民法と刑法各論のテスト。所感はまあまあ。憲法は落ちたな。また勉強しようと思う。
そして、今回のテストの感触も踏まえて、俺の卒業見込み時期をざっと算出してみる。
今の感じだと、おそらく2026年の春に卒業できるんじゃねえかという。わりと長い。そうなると、卒業時点で、32歳(33歳の年)なわけですよ。すごくないすか?2024、25年にはできると思っていたけど、我ながら、すげえ分野に手を出してしまったという感じ。でも、まあ、投げ出すわけにはいかないので、くらいついていく予定です。