とりとめのない話
このブログを朝、出勤前に適当に流し読んでいる方、おはようございます。
このブログを昼休憩の時間に、暇すぎてたまに見てしまう方、こんにちは。
このブログを夜、ベッドに寝転がりながら、うだうだと眺めている方、こんばんは、そしておやすみなさい。
このブログをブックマークしてくれて、定期的に見てくれている方、ありがとうございます。
もうすっかり春ですね。なぜかくしゃみがでます。理由はわかりません。春といえば、出会いと別れの季節ですね。冬が終わり、生暖かい風がやってきます。生暖かい風を浴びるといろいろな感情が沸き上がってきます。追憶の春。
今回はいつも以上にとりとめのない話をしていますのでそこんところよろしくお願いします。
最近更新が少し滞ってしまっています。もちろん更新したい気持ちはあります。どうぞ許してください。勉強しすぎて禿げそうになった時には、ブログを書く感じでいいかなとも思っています。少なくとも以前にように毎月3~4投稿は厳しいと思われます。まあ、みなさんも暇つぶしに見ているようなもんだと思いますので、そのくらいの感じに捉えといてください。
最近あれですね、30がついにやってくるという思いをひしひしと感じております。
べつに今までもそのような感情はつねにあったし、たぶん多くの人がそのような漠然とした不安を抱えていると思うんです。そうすると、では、どうすればよい生き方ができるんだっけって考えると、もはやまったくわかりまっせん。働くことってまあ楽しいけど、大変じゃないですか。
―確かに。
このまま働き続けていいんだっけという疑問は結構みんな持っているんだろうと思います。
働き続ける人もいれば、辞める人もいる。働くことは大変でも、いろいろな理由で働き続けなければならない人もたくさんいるはずです。というか、理由がなければ働かないはずなので、働くということは何かしらの理由があると思っています。
―基本は、お金を稼ぐため。
基本はそうですよね。ただ、自分の場合は、辞めてしまったんですけども。実際に僕の決断をまだまだ「甘い」と評価することも可能だと思います。「そんなんで弱音を吐いてはダメだ。」どこかのおじさんがそう言っているかもしれません。でも、実際にでは、過去の自分に戻って、辞めてはだめだ!といえるかどうかと想像したとき、それはおそらく、ちょっとむずいだろうと思います。
当時改めて思っていたことは、自分にとって会社で働き続けることは結構無理っぽいということです。もちろん、数年の間であれば問題ないと思います。それが例えば5年から10年以上、同じ会社で働くことは、たぶん厳しいのではないか。それは自分が単純に飽き性だからかもしれません。
―飽き性ね。なるほど。
働くことはそもそもしんどいのに、性格的不一致を理由に辞めるなんて、あんたは間抜けか!と言われてしまいそうです。僕らの親世代の人に、仕事飽きたから辞めるなんて言ったら、信じられないと言われそうです。
―うーんわからないけど。すんなり納得はしてもらえない人もいそう。
特に同じ会社で20年、30年勤めていた人からすると、なんだお前はと言われてしまうかもしれない。確かにそうかも、しれない。僕からすると、同じ会社で何十年も働き続けることなんて、まったく想像ができない。なぜ想像できないのだろうか。
それはたぶん、長く同じところで働き続けると、仕事がただの慣習や、作業になっていくからですよね。例えば、会社に入りたてでは、新しいことを覚える、刺激的な毎日がある程度続くと思われます。自分の頭、身体、をフルに使うことが仕事であり、それが社会貢献であると、ただ、そうして、ある程度年月が経つと、仕事内容も大体わかるし、流れもわかってくる。自分の頭、身体を使わずとも仕事をすることが可能になってきます。そうすると、今まで自分の頭、身体をフルに使うことが「仕事」であると思っていたのが、そうではなくなってしまう。あれ、これって「仕事」というんだっけ。社会への貢献しているんだっけ、という感覚が徐々に出始めていきます。自分は、このままこの場所で働き続けていいのだろうか、という疑問が徐々に生まれ始めていきます。
―働くってこういうものなのかみたいな。
おそらく自分たちの親世代は、「働くことはそういうものだ」という世間の感覚があったと思うんですよね。高度経済成長ですよね。働くことということはつまり、会社に所属して、そこで定年まで勤めあげること、女性は家庭を守り抜くこと。それがもう「そういうもの」として捉えられていたんだと思います。要するに、人生における指針やロールが結構明確に示されていたと思うんですよね。10代は勉強して、いい大学入って、20代は就職して、結婚して、子供を授かる。40代は脂乗りはじめる、50代は悟り始めるみたいな。それが良いことか悪いことなのかわからないが、少なくとも、僕みたいな「人生に迷う」みたいな状況はあまりなかったのではないかと。もちろん多少の生きづらさを抱えている人もいたとは思いますが、世間の空気的に、生きるとはそういうものなんだ、という感じだったのではないかと想像しています(全然違っていたらすいません)。
そのような過去の状況と今を比較してみると、何が異なるかといえば、現代には、「働くことはそういうものだ」という感覚がなくなりつつあるってことですよね。働くことは自分たちでデザイン可能だということになっていることだと思います。遊ぶことと働くことの境目がよくわからなくなっている。どう働くか、どこで働くか、どの程度働くか、自分でコントロールすることができるようになっています。これは働く側にとってみれば、働きやすくなるので、良い変化ともいえます。働くことの自由が高まることは良いことである一方で、すべての決断は自分の責任になります。すべて自分でしなければいけなくなるということです。ウーバーなんかもそういう感じですよね。自由に働く、ギグワーカー。響きはいいけど、わりと大変だったりする。あれ、これってもしかして不自由になっているのか、みたいな。
すべての決断を自分ですることはいいことだとは思います。しかし、それによってまた新たな問題が出てきます。それは、自分がどのように決断していいかわからなくなるということです。つまり、昔はある程度、人生における役割とロールが固定化されていたので、その役割に沿ってさえいれば、それなりの人生を歩むことができました。現代は違います。あらゆる選択を自分の手でする必要があります。選択するには、知識がないといけません。失敗したくありません。できれば、見本となるような人がいればいいのに。見本となる人が欲しくなります。どのような人生を歩むことがいわゆる「成功」と呼べるのか。どの選択肢を選べばより「成功」に近づくのか。路頭に迷います。突然、荒野に投げ出されたような感覚。どっちの方向にいけばいいのか、まったくわからない。働くこと、生きることがゼロベース化されているともいえると思います。ゼロから働くこと、生きることを組み直す。
某ひろゆき氏が何かと話題です。そして、わりと羨望のまなざしもあったり。それはおそらく、某ひろゆき氏を、現代における「成功」の指針とされているからだと思います。それは、ひろゆき氏が会社などに所属せず、自分の好きなように働いているということと、海外に拠点があることだと思っています。このクソ社会と、クソ資本主義から、抜け出して、自由に生きているように見える。ここではないどこかを想像する際に、某ひろゆき氏の生き方は、わりと強烈ですが、ロールモデルになりうる状況になってしまう。荒野に投げ出された僕たちは、とりあえず、明かりのある方向を目指します。生きるためには、そうするしかないからです。こんな印象です。
働くこと、生きることがゼロベース化されている。信念がなければすぐ迷ってしまう。信念のある人しか生き残れない。というか前に進めない。明かりを探そうにも、まったくない、もしくはその逆で、至る所に明かりがある。つねにコンパスはくるくる回転しています。そのような状況で、僕たちは、一体何を指針に生きればいいのでしょうか。それは残念ながら僕にはわかりません。いいえ、違います、僕たちが生きる現代は、もはやそのような問に満足に答えることができません。そのくらい、人の生き方が多様化しているということだと思います。
おそらく、昔は、ある程度みんな生き方が同じだったので、人生の指針も持ちやすかったし、考えなくてもよかった。ただ、一人ひとりの生き方がばらけてくると、本当に何を指針にして、何をすればいいのかというところが、マジで、わからなくなります。ロールモデルはオレ、以上。そんな感じ。俺か俺以外か、以上。
このように悩むくらいだったら、会社にいた方がまだマシだったのかもしれないですね。会社に所属していれば、そのようなことに悩む回数は減ると思います。会社に属するという不自由を受けいれることで、生活の自由を享受するのか。会社に属しない自由を受け入れることで、生活の不自由を受け入れるのか。自分がどう生きるかなんて、そんなことより、とりあえず、働け。いったい僕は、何のために辞めたのか。それほど「自由」が欲しかったのか。これが俺の欲しかった「自由」というものなのか。いっとくが、全然自由じゃないぞ。
いや、そもそも、俺は、本当に「自由」が欲しかったのだろうか。
会社で働きたくなければ、どうしろということになります。会社で働かずに生活することは可能なのだろうか。もちろん可能だとは思います。口で言うだけならだれでも言える。実際問題として、どのような業として、生活を回していくかということは、まだ20代後半の僕にとっては明らかに高いハードルだと思います。起業するならしたらええやん。ただ、なにやるの。そして、それは本当に意味あるの。そこからお金発生するの。ただ、起業するにしても、僕はお金儲けにあまり興味がないことがネックといえます。起業するなら四六時中寝ても覚めても、死ぬ気でやらないといけません。むしろ一番しんどいかもしれません。そして僕はそこまでして働きたくはありません。
ここまで読んでくれた方はわかるかもしれません。僕は単純に働くということにあまり興味がないのです。どう稼ぐか、何を稼ぐかといったことは興味がないのです。ほんの少しのお金さえあれば満足です。お前はヒッピーかといわれそうです。そうですね。どちらかといえば、そっちの部類であることは確実だと思います。ただ、べつにヒッピーにもなりたくありません。じゃあ、一体お前は何をやりたいんだ。確かに、おれはいったいなにをやりたいんだ。
―暗中模索。
いったん与太話します。モンの人々に関する話です。モンの人々は、ミャンマーからラオス、東南アジアにかけてルーツを持つ人々です。現在、彼らは、フランスやアメリカといった、アジア圏以外の地域に住んでいる人たちも多くいます。では、なぜその人たちが、アジア圏ではなく、遠くフランスやアメリカに住むことになったのか。それに関して正確に答えることは難しいですが、起こりとしては、ミャンマー、ラオス地域の紛争によって、難民として海外へ避難を余儀なくされたことがきっかけといえます。難民として避難してきたモンの人々は、最初は受入国の支援はあるものの、今後どのように生活を続けていけばいいのでしょう。
フランスへと避難したモンの人々は、まず簡単な読み書きを教えてもらいます。その国で暮らしていくためには、当然のことでしょう。そして、その後、工場労働に従事させられます。いわゆる流れ作業というやつで、ベルトコンベアーに乗っている商品をひたすら仕分けるという作業です。僕はそのような作業をしたことはありませんが、つらいと感じる人にはかならつらい作業かもしれません。そのようなまあまあつらい作業をさせられていたモンの人々は、やはりストレスが溜まってきます。こんな仕事をずっと続けることは無理だ。そう思っている人もいたことでしょう。
そんな、ある日、仲間の一人が耳よりな情報があると言います。それはフランスの南の方にいけば、自由に農業ができる暮らしがあるらしいぜ。それは本当なのか。いますぐにでも行きたい。こんな単純労働早く辞めたい。そうして、モンの人々はフランス南部にやってきました。実際噂は本当で、農業をすることができる環境はありました。ただし、土地があるという理由だけで、まず開墾をして、植物栽培可能な状態にすることが必要でした。もともと彼らは農耕民族であったこともあり、農業に関する知識はあります。モンの人々は一生懸命に開拓を続けます。なんとか農業ができる環境になってきました。
ただし、彼らは思います。ここで一体何を育てたらいいのだろう。玉ねぎ、じゃがいも等のポピュラーな野菜を栽培するのはいいが、ほかの大規模農家と比べて価格競争ができるはずもない。そうして試行錯誤していくうちに、運命の野菜に出会います。そうです。ズッキーニです。ズッキーニは機械化しにくく、大規模農家はあまり栽培したがりません。そこに彼らは目をつけたのです。ズッキーニだったら、なんとかいけるかもしれない。モンの人々はズッキーニ栽培を始めます。
朝から晩までズッキーニの収穫、その次にも。その次の日も。ひたすら収穫していきます。そうやって毎日何トンも収穫し、出荷していきます。大変な仕事。しかし、工場よりはマシだ。そして何より、自由だ。彼らはそれなりに、自由を享受している。前よりはマシだ。今やフランスのズッキーニの多くはモンの人々によって生産されている。もしフランス産のズッキーニを目にする機会があれば、それはモンの人々によって生産されている可能性が高い。ズッキーニっておいしいですよね。少し高いですけど。
この話は細部の正確性には欠けますが、大筋はノンフィクションです。モンの人々は実在していますし、ズッキーニを栽培していることも事実です。
―モンの人たちすごいですね。
たしかに、パワーあふれる。モンの人々は、難民としてやってきて、なんとか工場労働をがんばる。ただ、さすがに限界が来てズッキーニ栽培に移行する。ズッキーニを手に入れたことで、彼らは一応それなりに生活を回していけるようになる。ただ、それがずっと続くかどうか、という保障はどこにもない。今は、運よくズッキーニを栽培できているし、需要も存在する。次の年も続けることができるのか。今持っている土地が奪われるかもしれない。彼らの生活は一見安定しそうに見えて、いつ瓦解するかもわからない脆さを内包しています。自由に生きるとはそういうことなのか。
僕は自由を求めて会社を辞めた。では、僕の思う「自由」とはいったい何のことをさしているのだろうか。このクソ社会を抜け出したい自由。自分自身の身体的、行動的自由。確かに僕は、資本主義についてあまり肯定的ではない。そもそも、資本主義という言葉の意味もあまりわからない。お金ですべてが決まる価値観で世界は覆われているということに対してあまり肯定的ではない。そうすると、では、資本主義の外側は一体なんなのか、という問が生まれる。わからない。とりあえずマルクスを読もう。みんなが幸せになることは可能なのか、それとも弱者切捨て御免なのか。
つべこべ言ってないで、資本主義の終わりを想像するなんて無理なんだから、潔く働くしかないのか。せめて自分自身の自由はある程度確保しておきたい。わかった。やむを得ない場合には、会社等に属して働くことも考えよう。しかし会社というのは、よくもわるくもすげえ仕組みだな。
一応大学生ではあるが、アルバイトもしている。この前はコンビニでアルバイトをしていたが、最近辞めた。今は派遣のバイト倉庫でピッキングをしている。これが割と性にあっていておもしろい。自分は接客よりも、黙々と作業するのは割と得意な人かもしれない。今まで倉庫という業は、いかにも巨大インフラの歯車の一介のようなイメージがあって、おもしろくなさそうだった。正直にいうと、「俺は倉庫で働く人生はいやや!!」と思っていた。確かに大勢の人が働いていて、いろんな人がいる。けれども、それが意外と完全にわるものというわけでもなさそうだった。誰が注文した靴をピッキングしていると思うと、こんなやつでも、少しの役割は感じます。靴下が一足ずつビニール包装されているものを見ると、こんな包装いるのかと思ってしまいます。しかし、倉庫で管理、出荷するには、一つ一つ包装しないと、商品としてクオリティを維持できないと思えます。環境負荷は完全に外部不経済なわけですが、かといって、靴下のビニール包装をすべてやめた方がいいのかというと、それは少し難しいのかもしれません。要するに、靴下のビニール包装をやめるならば、それと同時に、サプライチェーンを見直さないとかえってよくわからないことになりえます。①ビニール以外の方法で商品の劣化なく保存できるのか、②ビニール以外の方法で、倉庫から各店へ輸送は可能なのか。③店舗で陳列の際に、劣化等しないかなどを考える必要があると思います。
過剰包装を反対するのはマジでごもっともな話だとは思います。一方で、その過剰(に見える)包装によって、何が守られているのか、原料から製品に至るまでの流れを確認していかないと、最終工程だけ批判しても何も生まれないのは、そうだとは思っています。ざつな話をすると、大半のビニール包装は価格と品質を担保しているのであって、それを取っ払えば、価格と品質が維持できなくなるということだと考えられます。それくらい巨大な仕組みができあがっているんですね。
もちろんだからといって、ビニールべたべた巻き付けた現状維持のままでいいとはあまり思えません。僕ができることといえば、そのようなビニールで(過剰)包装された靴下を買わないことだとは思いますが、べつにたまには買ったっていいでしょうとも思う。そんなに僕は環境意識が高いわけではないので、自分の行動を律してまではあえて避けようとはしないと思います。最近は、そのようなある種の矛盾を受け入れる心にもなってきました。
資本主義の外だろうが、中だろうが、どこで働こうが、自分がそこで働きたいと思えばそこで働くことに、わりと躊躇はなくなってきました。だから、僕がこのまま倉庫の仕事おもしろくなって、倉庫で真面目に働くことになってもありだというふうに思えてきました。
要するに、人と同じ方向に進むのも、おもしろい場合はあるなと思ってきたわけです。いつもは逆走ばかりしていましたけど、たまには並走や順走もわるくないかも、しれません。いや、わるいかも、しれません。ただ、すでに齢29のアルバイターという肩書がわりとわるいので、もう怖いものはありません。
ここまでマジで、本当に、とりとめのない話をしてきました。自分でも、途中から一体なんの話をしているのか、わからなくなってきました。
話をもとに戻しましょう。生き方がよくわからなくなっている件について。
今まで、働くこととは、いったいどのようなことなのかについていろいろ思考をめぐらせてきました。「そういうものなのか」「そういうものではないものなのか」「工場労働をすることなのか」「ズッキーニ栽培をすることなのか」。
働くことがなぜこうも厄介な代物なのか。それはおそらく、働くということには、「金銭的価値以外の要素」も含まれるからなのかもしれません。何事につけ、やっぱり自分たちは、意味を求めてしまいます。なぜ働いているのか。生きる意味ってなに。みたいな話です。一方で、働くことに大した意味ないやろ。生きるにもべつにただ生きるだけやん。そうかもしれません。そう思える人もいるかもしれませんし、思えない人もいるかもしれません。そもそも、人の人生と他人の人生の比較なんてできないはずだし、意味ないはずだと思っています。ただ、それを問わずにはいられない状況も存在したりします。
本来意味のないはずの問を持ち出してしまう一つの原因として「現実とイメージの不一致」が考えられるのではないかと思っています。要するに、「ここではないどこかへの想像力」が膨らんでしまうことです。「ここではないどこかへの想像力」が膨らむと、今置かれている状況に対して「疑念」が生じてきます。「俺が第2のひろゆきになるんだ」。ここではないどこかに「もっといい場所」があるはずだ。つまり、今の状況はダメなんだ。このような論理が成り立ちます。もっと社会に貢献できる方法がある「はず」だ。僕はここにいてはダメな「存在」なんだ。という、想像力が生まれます。そうした現実とイメージの不一致が起き、徐々に現実への違和感が顕現され始める。おそらく。
ネットで検索すれば、さまざまな情報があります。今よりよりよい環境で生きるにはどうすればいいのか。ネットにはそのような類の情報があふれかえっています。「自由で柔軟に働ける環境あり〼!!」「完全リモートOK!!」「高時給!!」
そして実際にそこで働いてみると、思っているのと違う、となったりするわけです。こんなはずじゃなかったとなってしまうわけです。隣の芝生が青いから、実際に隣に行ってみたら、芝生は青かったけど、虫がうじゃうじゃいた、みたいな。結局たいしたものではなかった。なんなら、元の場所に留まっていた方がよかったかもしれない。そう思う人もいるかもしれません。
結局はその程度のはなしなんだ。その通りかもしれません。モンの人々だって、ズッキーニ栽培を目指してやってきて、実際に自由を享受できたけど、結局は価格を自分たちで決めることは困難だし、資本主義のうえにべったり乗っているわけです。
厳しい世の中です。いや、これは語弊があるかもしれない。世の中というものは常にある種の厳しさを含んでいるものなのかもしれません。僕のような確固たるスキルもなく、さも、よさげに生きてきた自分にとって、自由に生きることは、不自由に生きることにも近いのかもしれない。
そろそろ結論を出さないといけない。結論が出ないまま、こんなに長い文章を読んでくれる人がいるとは思えない。じゃあ、どうすればいいのか。そんなん自分で考えろ。俺は俺からの目線でしか物事を判断できないので、お前の目線に立った場合には、それは、お前が判断したほうがいい。とりあえずマルクスを読んだ方がいい気がしてきた。
とりあえず、自分の好きなことをやっていくしかないのかもしれない。最終的には、それしか基準がなくなる。自分の好きを頼りにするほかなくなる。かといって、自分はいったい何が好きなのだろう。自分の好きなことがはっきりしている人は割と少ない。やりたいことがない人は多い。飽き性の自分にとって、一貫して何かを好きであり続ける人はマジで尊敬する。いまやっていることだって、次の瞬間には飽きて手放しているかもしれない。なんとか現在までは続けてこられている。いいや、むしろ手放す勇気もない。手放したところで、マジで空っぽマンになる。空っぽになったら、何かをまた詰め直せばいい。そうしよう。