―ねえねえ、おじさん。
なに。
―あの人、きれいだね。
うん、たしかに、そうだね。
―あの人と、話してみたいな。
話しかけに行けば?
―そんなことしていいの?
していいでしょ。めちゃ勇気いるけどな。
―えー。そうだよね。僕には無理だな。
俺にも無理だ。
甥っ子は幼稚園児にして、きれいな人かどうか、嗅覚が優れているようです。
おまえはいったい、それを、どこで学んだんだ?
―なんとなく。わかるでしょ。
うーん、たしかにわかるけどさ。
そんなこと、親は教えない。ただ、きれいかどうかはわかる。
幼稚園児は、きれいかどうか、判断することができる。そりゃ、あたりまえかもしれない。美男美女はいつまでも、美男美女である。それはそうなんだけど。
ジャニーズは、ずっとジャニーズだし、AKBは、ずっとAKB。彼らは美男美女の代表格だと思います。彼らを見て、かわいくない、かっこよくないと思う人はそういない。たいていかわいいし、かっこいい。キムタクはずっとかっこいい。前田のあっちゃんは、ずっときれい。はい、全員賛成。
ごはんは歯で噛んで、飲み込む。これは、あたりまえすぎる。ごはんを噛んで食べなければ、喉に詰まって死ぬ。これは、誰にも言われなくても、わかる。ごはんは噛んで食べる。あえて噛まない人なんていない。口に物を入れたら、とりあえず、噛む。それはほとんど反射みたいに、無意識に咀嚼は行われる。もちろん、食べ方はちゃんと教えないと、口回りにケチャップがついたり、コップを倒したりしてしまう。食べ方の作法は訓練が必要。ただし、どう食べるか、なんて、教えられずとも、ただ噛めばいいだけなので、訓練なんて必要ない。誰から、言われずとも、みんな、噛む、以上。
だれがきれいであるかどうかも、訓練なんていらない。ただ、感覚のみ。それは、たとえ、幼稚園児であっても、だれが、かわいくて、かっこいいかは、判断できてしまう。
「イケメンか、そうでないか、かわいいか、そうでないか、お前も判断できるのか。」
もちろん個人差によって、きれいの基準に違いがあるとはいえ、十中八九、美男美女かどうかは、判断できる、気がする。そう考えると、美しさの判断基準って、人間に埋め込まれている気もしてきた。いわゆる黄金比の美しさ、みたいなはなし。その文脈で考えていくと、美しさは果たして、後天的に獲得できるものなのか。
「かわいいまたはかっこいいって、本当につくれるのか?」
もちろんこんなことを言えば、全女性から返り討ちに合いそうです、すいません。僕は単純に、みんな、きれいかどうかをどうやって判断しているのか気になるだけなんです、と言い訳めいたことを言っておきます。もちろん、昨今の多様性ブームから考えると、一人ひとりが美しいのであって、かっこいいのだ、ということだとは思います。
人間の感性的に、美の基準は、ある程度、きまってくるように思います。だからこそ、美術品は、いつまでも、美しいといえます。ただし、そのように、感性に従って切り分けていくと、普通に、生きづらくなる人が現れてくる。つまり、感性に従って、美しいものを愛でていくと、その枠からはみ出ている人は、いつまでも、美しくならないということです。美は、ある程度決まっているからこそ、多様性というワードで、美という定義を揺さぶっているんだろうとおもいます。感性に従うことは、良いことであるとは思いますし、僕自身、感性に従って、これを書いています。一方で、感性に潜むバイアスこそ厄介だよなと思います。本人の気づいていないくせみたいなことです。
―みてみて、あの人もきれいじゃない?
確かに、よく見てるな。すごいな。
―でしょ。おれ目はいいからさ。
自分は、こっちの人もきれいだと思うけどね。自然体で。
―へーなるほど、自然体か。自然体ってなに?
んーなんか、自分に芯を持っているというか。オーラが。
―え!オーラ見えんの?
いや、みえないわ、ごめん、たとえで言った。
ーなんだ、つまんないな。
つまんないって言わないで(泣)。