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<前回の続きです>
ーふーん。
アーティストは感受性がビンビンであると、つまりアーティストというのは精神が開かれた状態であるとも言えそうです。外に向けて精神が開かれていることによって、外界と自身の相互作用によって感受性が刺激され、創作として何かがあふれ出ていくと。生き方としては究極の個人主義ですよね。一方社会の中で生きていると、精神って徐々に閉じていくというか。閉じた状態によって社会は構成されている感じ。だから社会というか経済から見たときにアーティストは少し別次元にいる人、みたいな感覚で、そういうアーティストたちが例えば創作物をマネタイズする際に、言葉を変換して、社会にいる自分達が体感できるように提供しているんじゃないかな。CDとかがいい例だと思う。創作をそのままはき出さずに、編集して、いい感じに言葉を紡いで、ストーリーを出すとか、例えばね。ブランディングみたいな話しですね。
ーかみ砕いてください。
えっと例えばミュージシャンってアーティスト自身は例えばCDを作るために音楽を作っているわけではないだろうし(そうかもしれない)、ライブをするために音楽を作っているわけではないだろうし(そうかもしれない)。アーティスト自身は音楽をつくりたいというより、あふれ出たものが音楽と呼ぶものだっただけであって(そうではないかもしれない)、それを編集してCDというものにしたり、ライブにして届けたり、それっぽく。
一方で自分達は何か音楽を聴きたいと思ったら、Spotify、Youtube、CD、ライブを楽しむものだと思っている。何か聴きたい→音楽を聴きたい→Spotifyで聴く、Youtubeで聴く、CDで聴く、ライブで聴くということだと思っている。何かを聴くことは音楽を聴くことで、Spotifyみたいなものを楽しむことであって、CDを楽しむみたいなことでもある、みたいな。ただそういうCDとか人工的に作られたものの音楽を聴くことが聴くことの全てではないだろうし、例えば森にいる鳥の鳴き声や、海の波の音を聴くことも音楽を楽しむことだろうし、なにか音楽楽しむこと、聴くことはSpotifyで探すことだけでもなく、タワレコ行くことだけでもない、という。
―音楽を聴くこと、楽しむこと、とはって感じですね。
<次回に続く>
📗<地域社会圏モデル>
住むことに関して、「一つの住宅に一つの家族が住む」ということが当然になっている。「一住居=一家族」を前提としてあらゆる社会サービスが供給される。公助というものの雲行きが怪しくなる中で、いかに共助をデザインするか、ということが最近のホットな話題であるように思える。そのような中で地域社会という場所から「地域社会圏」というものを考えてみる。「一住居=一家族」に変わる建築的提案ができるのか、とてもおもしろい本でした。
📝<追伸>
人として当然のことってなんすかね。
まあそれってのは少しくらいはあるだろうな、礼儀正しいとか、挨拶とか。ただ[人として当然のこと]というものは、それが言語化されたらその限りではない感じがしていて。
つまり誰かが[OOは人として当然のことです]と言った瞬間にその[OO]は当然ではなくなる可能性があるんじゃないかな。人として当然のことは暗示的なものであり、暗示的だからこそ、そう言えそう。それが明示的になった瞬間にその言説は[当然である]意味に加えて[自分のエゴ]という側面が追加されるんじゃないか。
しかも[人として当然のこと]という言説は大正義となってしまうので、それを信じて疑わない。それが当然であることは絶対である、感じ。自分が絶対正しいと思うと自分は変わろうとしない。自分が正義だから。
むしろ自分が正義だから、周りに惑わされてはいけない、と自分の意思を絶対的に誇示する。
自信をつけることはいいことだとは思うが、同時に自分の言説に自身が一番批評的であることが肝要だと思うんすけどね。