Photo by KAL VISUALS on Unsplash
―え、ケアしないんですか?
いや、もちろんケアをすると思うし、そういう意味で創作に触れる人が多くいるのは、それはそう。音楽聞いてリラックスしたり、絵画見て感動したり、映画を見て興奮したり。僕たちが何かしら創作を体感しようとするのは、何かを得ることができたらいいなという動機が少なくともあるわけで。ただ実際にそれを体感する前に予想していた感情と、体感したあとの感情というのは一致しないことも多々あって。楽しそうだったけど、やってみたら楽しくなかった。つまらなそうだったけど、意外におもしろかった、など。一応ある程度の予想はできるし、その目星に従って行動するのが常ではあるが、やっぱりその創作を体験する前と後では少なからず感じ方の違いがあらわれますよね。やってみなきゃ正直わからん感じ。そう考えると、自分にとって何がハマるか、何によって感化されるか、というのは事前にはわからない。それってなぜだろうと思うと、何か創作を体験する前と後では自己の変容が起きていそうな気がします。つまりある創作を体験することで、自己というものが相対化される気がするんですよね。創作を体験することで何か感情が揺さぶられますよね。揺さぶられることによって自分の中の何かに気付く。自己が相対化されるともいいましょうか。自己が相対化されることによって自分の感じ方が少し変わってくる。感じ方が変化することによって、以前には気付かなかった部分がなんとなくわかるようになるかもしれないし、やっぱりこれは自分が好きなものだと再確認することもあるかもしれないし、逆もしかり。
―でもつまらないものはつまらないものですよ。
starRo氏曰く、アーティストってのは感受性がビンビンなんだよって。創作というのはある種その感受性があふれ出たものである、創作はアーティストの中の分人であり、自己が身体外に拡張されたものといえる。なので「創作は自身をケアするか?」と聞かれたら、創作そのものが自身をケアするというよりも、感受性ビンビンであふれ出るもの、創作するプロセス自体が自身のケアにつながると言えるだろうな。そういう意味において創作はあくまで自分のための創作であって、誰かのために創作するというものではなない。つまり創作する際に、その創作がどういった人たちに触れられるか、ということは考えられていないし、正直考えることも難しいだろう。創作者からしたら、どんな人にその創作が触れられているか、などはほとんどわからないし、想像もつかない。だから自分もこのよくわからない文章を書いているが、自分はこれを別に誰か読者を想定して書いているわけではないし、何かを書きたくて書いているというかわけでもなく、ただ”溢れ出ているもの“という感覚なんですよ。
そう考えると、創作における源泉は自身の“感受性”であり、それが”誰をケアするか”という文脈はあくまで二次的なものともいえそう。つまり一次的な意味で捉えると「創作は誰もケアしない」とも言えるのではないかと思うんです。
ーふーん。
(次回へ続く)
📚<くらしのアナキズム> 松村圭一郎 著
はじめに より
「国家」について意識しはじめたのは、二十二歳で訪れたエチオピア西南部のコンバ村でのことだ。当時六十代半ばだった農民男性、アッバ・オリの家に居候させてもったことがきっかけだった。アッバ・オリは彼の人生と村の歴史について教えてくれた。それはとても衝撃的だった。国家が、あとからやってきたからだ。 p8
PS. もう冬になりましたね(まだなっていない)。少し長文になりそうなので、三回に分けて送る予定です。分量の要望等あれば言ってください。あと自分周辺の言論空間は安全だと思うので一応言っておきます。最近はSFにハマっています。<謎SF>足るもの読んだのですが、マジで謎でした、、