Photo by Jaco Pretorius on Unsplash
今回からは食べものに関することをぐるぐる考えていきます。
BGMにどうぞ
どうもー。突然だけど好きな料理なんかある?
―うーん、好きな料理かー、これと言って特にないかも、コンビニのおにぎりとか?(笑)
たしかにコンビニのおにぎりはうまいけど、、でも自分も食への執着心みたいなのは昔よりかは薄れてきてて、もちろんうまいものを食べたい欲はあるんだけど、それほどがっつかなくなったというか。
―一人暮らししているとそうなっていくのかもしれないですね(笑)。。。食べるのが面倒くさくなってくるというか。
そう、なんで腹へるんだろうって思う。なんでご飯食べなきゃならないんだって(笑)。ただかといってまずいものは食べたくないという、もう自己中心極まりない感で。外にいけばおいしくて安いものいっぱいあるしね。
―一時期すき家に週4で行ってた時ありましたね(笑)。すごい牛丼にはまっていた時期があって。今はむしろ全然言っていないですけど。
確かに自分も松屋はよく行ってて、松屋のカレーが神なんすよね。松屋のカレーが一番うまいんですよ。家で作るより安上がりだしさ。
―そう考えるとうちのキッチン1年以上使っていないですね(笑)。もうキッチンいらないです。流しだけあればいいです。
いやーでもそうなるよな。最近は「家庭料理は家庭ではもはや食べない」って言っている人も居たりして。したら一体どこで食べるんだという話だよね。確かに家庭料理というのは、家庭でしか作れない料理のことを指しているんだろうけど、いわゆる煮物とか、先祖代々の術とか、なにか独自かつ郷愁にかられる調理法でもある気がするが。
―家庭料理で思い出すのは肉じゃがとか、でも名称不明の謎料理もたまにあるけど、そういうのにかぎってうまいんだけどね。
“えのき揚げたやつ”とかね。ただ最近はみんな忙しくなってきているし、核家族になってくると、家庭で家庭料理をつくる人も時間も減少している。2,3世帯住んでいれば婆ちゃんが作ってくれるかもだけど、いまはそんな人はいないし。ただたまには家庭料理を味わいたい、そんな人も多くいる。ファミマで”お母さん食堂”(少し問題になって名称変わっている)というものがあったけど、そういう商品が出てくる背景には、「家庭で家庭料理を作る人がいなくなった」からだと思うんだよね。でもたまには食べたいという。
―確かにたまに実家の肉じゃが食べたくなります。
そう、だから「家庭料理をもはや家庭ではたべない」から、家庭料理を”買って食べる”、もしくは家庭料理を”食べに行く”、みたいなことになっていくんだよね、字面だけみるとこの言説ちょっときもくない(笑)?そもそも家庭料理ってのは”家庭”で食べるから“家庭料理”だと思っていたんだが。おっと家庭ってものがなんだかよくわからなくなってきたぞって感じ。
―家庭の過程。。。
うまいな。でおそらく家庭というものの存在が変わってきているんだろうね。少し前までは家庭(料理)は<日常食>で外食は<非日常食>みたいに。特別な日は外出して、ハレの日はいつも外食。普通は家庭で過ごす。「どこで食べるか」で日常と非日常の区別あったと。ただ最近になってくると、日常的に外食もするし、むしろ日常を求めに外出するという感じ。もちろん高級レストランは非日常だとは思うけど。
だからひと昔前は<どこで><誰と>食べるかが重要だったんだよね。家庭で、家で家族とであれば<日常/家庭>だし、外で友人と外食するならそれは<非日常>になってくる。ただ最近は<何を><誰と>食べるかが重要になってきてそうじゃない。冷凍ギョウザを家族で食べるときだってそれは日常だし、家庭料理ともいえるだろうし。みんなでファミレス行ったときに、それが日常であれば、その場は”家庭”になりうる。
―へー。
だからもうこれ、場所性が没落してんなと思うわけ。今まで家庭というものは当然「家の中にあるもの」だったが。家庭が家から抜け出して、誰と、何を共有しているか、食べているかでその空間が家庭(日常)というものになり、そういった家庭という空間にある料理を「家庭料理」と呼ぶのではないかなーと。少し拡大解釈しすぎ?
―わからん(笑)。
でも一つ思うのは、家庭の機能や役割は家の中だけでは収まらなくなってきているとは思うのね。家庭の機能がパズルみたいに分節化されて、機能別に民営化/ビジネス化されているような感じ。縁食論という本のなかの一節で、
食べる場所が、ただ食べるための場所になってしまったことによって、食べるという行為が本来持っていた多様な可能性、食べることによって生まれる多様な出会いが失われてしまったのではないか。P47
著者の藤原氏はともに食べること、縁食ということばを当てはめ、食を中心に人々の居場所、居心地のよい場所、いわゆるサードプレイスのような、人々のつながりを作り出す場所、そういったものを構想していくことが大事なのではないかと言っていて。たしかにもはや家を家と感じない人も全然いるだろうし。
―家を家と感じない人。。
家よりも居心地がいいし、楽しいし、みたいなことかな。でなんの話してたんだっけ?食べ物か、そうだから次回以降は、食べもののことと、それこそ家、家庭のこれから、のようなことを考えていこうと思います。
(参考 : 新・雑貨論Ⅱ第2回)
📗<チャヴ 弱者を敵視する社会> 海と月社
イギリスにはなんだかよくわからない憧れのようなものはあり、ずっと行ってみたい国ではある。この本を読むまでは実際イギリスのことはふわっとしか知らなかったし、まあそれとなく経済は発展しているのだろうと勝手に思っていた。ただそういった安易な考えは悉く粉砕された。イギリスは超階級社会に突入しており、富める人がますます富み、貧しい人がますます貧しくなる、そういった現実がのっぺりと横たわっている。
ロンドンは世界有数の不平等都市になり、上位10パーセントの富裕層が、下位10パーセントの貧困層の273倍もの資産を所有している。
政界、財界、メディア、テレビ、そういったいわゆる大衆を操る職の大半が中流階級であり、中流階級による、中流階級のための、中流階級による政治、国と化している。彼らは口をそろえて言う。いまやわれわれはみな中流階級であり、階級というものは存在せず、そして貧困というものも存在しない。それは貧困ではなく、無知に基づく基本的な性格の欠陥なのだ、と。
ただ実際にはサッチャーによる新自由主義政策によりイギリス製造業は崩壊の一途だ。イギリスの世帯の平均年収はわずか300万程度という。本当なのか。いや本当なのかもしれない。貧困層は決して怠け者ではなく、ただ単に、充分な就職口がないからだと。250万人の無職者が存在する一方、全国の求人数は50万にも満たない。働きたくても働けない。ただ政治家はこれを彼らが怠けているせい、向上心のないせいだと一蹴する。出世できないのは本人たちのせい、彼らには責められるべき理由がある。あたりまえのはなしだ、と。
いまだに500万人以上のイギリス人労働者が生活に困窮している、これは文字通り”危機”だ。そして危機にさらされているのは、労働者階級の未来だけではない、私たち全員の未来だ。
日本に生きている身からするとこの話は浮世離れしているように見えてしまうが、このように感じている自分自身が恐らく浮世離れなんだろうなと思う。ただ日本だって相対的貧困率はG7中でワースト2位と言われており、普通に貧困率は高いという現状があると。貧困というものの見えにくさがグロいよなと思う。見えないということは今自分が何をしようとも彼らにとっても見えないし、お互いのことが見えない。そう考えるとイギリスのことは全然対岸の火事でもないし、実はもうすでにどこかは燃え始めているかもしれない。
<あとがき>
いまさらながらChance The Rapperが同い年であることを知った(1993年生)。あの風格て同い年なのは衝撃を受けた。レーベルに所属しない、音楽を有料販売しないという従来と一線を画す感じ。よくそれでやろうと思ったな。Chance The Rappaerすごいですね。そう考えたらなんでもやろうと思えば、やりようはあるのかもしれません。